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水と生命生命とは何か? 24 清き明き心
① 「清き明き心」「正直の心」「誠・誠実」の純粋性の追求
『万葉集』には、「清」という字がしきりにあらわれ、日本人の好むものである。清は、「きよし」あるいは「さやけし」と訓まれるが、おもに山・川・月・あるいは地名の形容として用いられる。自然=神=清ととらえられる。(42)
『古事記』に、須佐之男命が高天原にのぼってきたときに、荒々しかったので、大神が「必ず善き心ならじ」と疑い問いかけ、須佐之男命が「我が心清く明し」と場面があり、ここでいう清き明き心とは、二心なき心であり、隠すところがない透明な心である。二心ない心=清を求めた。(43)
北畠親房の『神じん王のう正統記しょうとうき』の三種の神器に一つである鏡を説明する文章で鏡は一物をたくはへず、私の心なくして、万象をてれらすに是非善悪のすがたあらはれずと云うことなし。其のすがたにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源なり。正直とは、①根本においてまず私のない心である。だが同時に、②無私なるがゆえに、状況状況における是非善悪をあきらかに捉える心である。③その捉えた是非善悪に即して行動する心でもある。このように無私、心情の純粋性を根本とする。正直とは、単なる無私ではなく、その無私無欲は、状況状況の是非善悪を捉え、そこに生きる心としての無私私欲である。無私無欲としての正直は、是非善悪の決断、慈悲、したがって情なさけが根本に求められるものであった。(44)
「誠」とは、中国の儒教の一つの重要な概念。『中庸』に「誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり」とあるが、誠を儒学の根本とするものはない。武内義雄氏は、誠中心の儒学こそ、まさに日本的儒学の誕生であると指摘している。日本人が誠という概念に共感するところが大きかったことがわかる。幕末の新撰組も「誠」を掲げて戦っている。自らの心情への誠実さをもって、生き方の根本とするものである。(45)