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水と生命

生命とは何か? 10 インドでの生命観

第二節 『インドでの生命観』
古代インドのバラモン教の最古の聖典『リグ・ヴェーダー』(紀元前12世紀ころ、現在の形に編纂された)に宇宙開闢の歌がいくつかある。
一 そのとき(太初において)無もなかりき、有うもなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下もとに。深くして測るべからざる水は存在せりや。

二 そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき。かの唯一物(中性の根本原   理)は、自力により風なく呼吸せり(生存の徴候)。これよりほかに何ものも存在せざりき。

三 太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。この一切標識なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつあるもの。かの唯一物は、熱の力により出生せり(生命の開始)。

四 最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(思考力)の第一の種子なりき。詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の親縁(起源)を無に発見せり。
(23)
上記の歌を、辻直四郎氏の訳をかりて表現すると、宇宙の太初には、無もなく、有もなかった。死もなく、不死もなかった。夜と昼の標識となる日や月や星もなかった。かの唯一なるものは、みずからの力によって、風もなく呼吸をしていた。これより他は何物も存在しなかった。宇宙の太初に、暗黒によって覆われていた。この一切の宇宙は、光の照らさぬ水であった。空虚に覆われて発言しつつあった、この唯一なるものは、熱の力によって出生した。最初にかの唯一なるものに意欲が現れた。これは意(思考力)の第一の種子であった。聖賢たちは熟慮して心に探し求め、有の起源を無にみつけた。宇宙の創造神を他にたてず、みずからが変化し、展開することによって世界ができあがったと見ていると考える。また、『リグ・ヴェーダ』によると、人間は死ねばヤマの国にいき、地上において生活を楽しんだのち、死んでもヤマの国において祖霊(ピトリ)とともに快適な暮らしを続けるという、楽天的で素朴な死生観と他界観をもっていた。

 

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