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水と生命

生命とは何か? 9

ルネ・デカルト(1596年 ~1650年 )は、フランス 生まれの哲学者 ・自然哲学者 (自然学者)・数学者 。合理主義哲学 の祖であり、近世哲学 の祖として知られる。1633年に『世界論』と題する論著書き、その中に人間の高度な機械論的説明である『人間論』が含まれていた。しかし、『人間論』については、デカルトの死後1662年に刊行された。デカルトの思想は、数学と形而上学に対して根本的で今もなお、影響を持つ。世界を考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「われ考う、ゆえにわれ在り 」である。身体を所有しているということさえ、とても絶対確実とはいえないと、彼は考えていた。
「この実体の本質または本性とは、考えるということだけである。そうして、かかる
実体の存在するためには、何らかの場処をも必要とせぬし何らの物質的なものにも依頼せぬものであることを、したがってこの『私』なるもの、すなわち私をして私であらしめるところの精神は身体と全く別箇のものであり、なおこのものは身体よりはるかに容易に認識されるものであり、またたとえ身体まるで無いとしても、このものはそれがほんらい有るところのものであることをやめないであろうことも、私は知ったのである。(20)」
これが、デカルトの主要な哲学的発見であり、思想の核心をなしている。また彼は下記のようにも言っている。
「我々に思いがけずにやって来ることには気付いているが、精神はそれらの感覚が自分だけから発するとは意識していないし、またそれらが精神に属し得るのは、精神が思惟者だということだけによるのではなく、ただ我々が人体と呼ぶ或る延長的・可動的な他のものに、結合していることによる、ということを意識しているからである。(21)」
彼は、精神は脳に宿るという。心臓と脳を結ぶ神経が切断すると、私たちは心臓に関して何も感じなくなってしまうにちがいないと語る。また彼は、アリストテレスなどの古くからの信念、運動と霊魂の関わりを認めていない。物体は、「霊魂」をもっていないとしており、情念は霊魂に属し、行動は身体に属すること考えている。運動は身体だけに属し、あらゆる種類の思考は霊魂のみに属すると。
このように、もし運動が身体に固有のものであり、霊魂の関与をかならずしも必要をしないとなれば、身体の活動は複雑な機械の一部のはたらきとして、扱うことができる。実際にデカルトは、その考えを進めていく。脳・神経・反射について述べていく。実際に神経インパルスが完全に分かったのは、20世紀半ばなので、1650年亡くなられた彼が言っていた生理学が、証明されることになる。
デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。デカルトが歴史学 ・文献学 に興味を持たず、数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。還元主義 的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。

1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)

2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)

3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)

4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)

幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除する事である。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑の事である。この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚 (外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚も偽とされる。
『省察』(1641年)
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なこと を発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語 )である。(22)
1649年『情念論』で、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。
17、18世紀ごろから、生命現象と言えども化学や物理によって説明できる、と考える機械論が主流となっていく。機械論は、天候や地形、生命などの諸々の自然現象を、心や精神や意志、霊魂などの概念を用いずに説明していく。ニュートンやライプニッツらにも大きな影響を与え、それはひとつの潮流ともなり「デカルト主義」とも呼ばれた。
さらにデカルトが亡くなってから100年近く経った後、フランスの哲学者、医師。啓蒙期フランスの代表的な唯物論者のジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー(1709~1751年)は、霊魂の存在を否定し、デカルトの動物機械説を人間にも適用し、人間を精神と肉体機械とみるデカルト的二元論よりも機械論に徹底した生命観「人間機械論」を提唱した。
このデカルト以来の還元主義(存在するものは、すべて部分の集合体よりなると見て、それぞれの部分を明らかにすることによって、全体を把握することが可能であると考えるという考え方)分析的な思考法に基づいて、現代科学技術は発展してきた。
ヨーロッパは、哲学・数学・天文学など目まぐるしく発展し多様化していく。輪廻や愛・霊魂・生気論や機械論など、プラトン時代から霊魂と肉体という二元論があり、一元論にもどるのではなく、細分化していく。文化でありそこに特徴があると考える。
これは、技術を飛躍的に発展させるかもしれないが、人間として生きにくく、苦しいのではないだろうか。生命を含む自然を考えるという主観的なものは置き去りとなり、生命のない客観視されたものとなって、心が彷徨ようになると考察できる。
東洋では、仏教も道教も形而上学的に、思考により考えを発展させていくが、そこには、肉体も心も思考も大切にする傾向あり、二元論ではなく、やはり全体性をみていく文化があるように思う。
私は、現代における主な考え方は、苦しくてたまらない。より細かくさらに細かく、誰が行っても普遍であり、同じ答えになるのは、不確定要素の多い人間やこの世の中や自然には、あてはめ難いのではないだろうか。未来さえ何が起こるか分からないのに、いつも普遍的な現象を求められることが、苦しみを生んでいると私は考える。
しかし、最新の最先端の科学の一つである量子論は少し違った考えを打ち出してくる。いままでの科学では、考えられないことばかりが理論として出てくる。量子論についてあとで述べるが、不確定性定理が生まれる。この世界は揺らぎをもち、どうなるかは確率でしか言えないのである。東洋的な発想や初期のギリシア哲学の発想が求めあられてくる。

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