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心身の改善方法について8

今まで習い覚えた養生法や武術や瞑想は、
すべて生活に役立つもので、生活術と言えると思います。
心身の弱いところを補い、強め、気血の流れをよくして、
円満に至る道だと思います。
また、 人と自然をつなぐ道だと思います。
人の身体も地球の表面も70%水です。
海の波のように、からだも呼吸により波うっています。
体内にも、地球上で起こる自然現象があります。

ご参考までに
拳意述真という
武術(形意拳、八卦掌、太極拳)の名人達の語録より、
耿誠真先生の要訣

耿誠真先生は言った。
青年時代、拳術を修行していたころ、私は肝の火が強く燃え、
血気はなはだ盛んだった。
理由もなくしばしば人と不仲になり、
同道の武術家さえ仇敵のように見なした。
そのため自分自身で悩みに落ち込むことが多かった。
この身は拙勁によって拘束され、
技を存分に発することができず、
自分にどれだけの力量があるのかさっぱり分からなかった。
ある友人の紹介で私は深州、
劉奇蘭先生を拝してその門下に加わった。
先生は言った。
「この形意拳は気質を変化させる道である。
原初に復帰させるために練るのであって、
後天血気の力を求めるものではない。」と。
最初の段階である明勁を修練して四、五年経ったころ、
全身の気質と腹内の性情が以前と
ずいぶん変わっていることに気がついた。
昔を思い返して、他人に対して自分がどんな感情を抱き、
何を言ったかを考えると、いつも心中深く悔悟の念が沸いた。
これより後、暗勁の修練に入って五、六年経ってみると、
心中内外の情景はまた明勁の段階とはちがっていた。
武術同道の人に会うたび意気投合して、
自分よりも腕の立つ人にたいしては率直に賞賛することができた。
しかし、この時、まだ自分の心の中には技法をおしむ、
けちくさい心情が残っていて、
自分の得意技などを軽々しく人に見せる気はなかった。
それから、化勁の修練に入って、また五、六年が経った。
すると、身体の内外、剛柔が一つに合して、
次第に、無へと化していった。
ここに至って初めて腹内が空洞になったかのように、
崑崙として形なく象なく、無我無他の境地に入ったかのようだった。
そのとき以来、私には自他の区別、門派のちがいが消えていった。
武術同道の人に会えば、誰であっても親愛の情が湧いた。
まだ未熟な人に会ったときは、
惜しみなく自分の持てるものを教えたいと思った。
同道の人とたまたま試合することになった時でも、
こちらから人を打ち負かそうという心は起きなかった。
用いた技、発した動きはみな道理に則ったものであり、
入れば必ず自在の方を得る。
という自然の術だった。
このとき初めて私は、形意拳とは中和の道理であり、
だからこそ人の気質を変化させ、
道に入ることができるのだということを知ったのである。

私の好きな文章です。
肝が強すぎれば怒りやすい。そんな気質が拳の修行で、
変化大成していったようすが書かれています。
この武術が道教(仙道)の錬丹法や
仏教の影響を受けて成立していることがうかがわれます。
また、易、風水、漢方、武術は同じ理論で構成されています。
まさに、この自然の術は、気質を変化させる道であり、
中和の道理であり、原初に復帰させるものと感じています。

ドン・ファン・マトゥスの言葉

普通の人間と戦士との基本的な相違は、
戦士があらゆることを挑戦として受け入れることだ。
一方、普通の人間は、すべてのことを祝福(幸運)か、
呪い(不運)のいずれかとして受け取るのだ。

自分が何を強調するかってことにあるんだ。
自分をみじめにするか、強くするか、どちらかだ。
仕事量は同じなんだ。

死を意識しなければ、すべては当たり前のつまらないものだ。
世界が計り知れぬ神秘なのは、ひとえに死がわれわれの背後に
忍び寄っているからだ。

佐川幸義先生の言葉

「鍛錬で無理してはいけない。
無理しなくても強くなる方法を考えよ。」

これらの言葉を踏まえて日々楽しみつつ生活したいです。

私は武術の練習を通じて、腹(丹田)に、
気(エネルギー)が満ちるのを感じるようになり、
老師方が言っていた仙人の存在を信じられるようになりました。
エネルギー体をしっかり作り、不老長寿になるだけでなく、
人間の可能性は、もっともっともっとある。
意識的にも、肉体的にも。
だからこれに親しみ、楽しむことを、お勧めいたします。
今までの悩みが、薄らいでいくでしょう。
それだけでなく、いろいろ気づいたり、
もっと大いなるものを感じるでしょう。

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